感想
4月からヨーロッパで過ごすこともあり、ホットなタイトルだったのでジャケ買いして読み始めました。
日々世間を騒がす報道について、理解のない自分でも前提知識なしで読むことが出来ました。
2004年に書かれた本なので、今世間を騒がすイスラーム国の事件については触れられませんが、現在のイスラーム圏とヨーロッパ圏の衝突が、どのような背景のもと起こったものなのかを理解するのにいい本だと思います。
著者が社会学畑出身なので、あまり(というかほぼ全く)定量的な議論は出てきません。
本人が「現実と人間とに焦点を当てて同時代の証言を集め、一歩引いて、それを俯瞰し再構築するのが私の方法である」とあとがきで述べている通り、取材したムスリム移民のエピソードがふんだんに載せられています。
すらすらと読める一方で、読者としては、一例と一般的な事実との境はどこなのかを多少注意して読む必要があるかもしれません(そもそもこの手の話題を定量的に扱うこと自体が難しいのかもしれないけれど…)
あらすじとして以下にまとめましてみましたが、本書にはまだまだ有益なことが多く書かれており、是非人におすすめしたい本です。
title: “つぎは池内恵の『イスラーム国の衝撃(文春文庫)』を読みはじめています。” date: 2015-08-30T00:00:00+09:00 draft: false
あらすじとメモ
著者は現代のヨーロッパ世界とイスラーム世界の衝突を、単なる「キリスト教対イスラーム教」という構図で説明できるものではないと否定する。 イスラームが意義を申し立てている相手は、宗教的規範から離れたあとに成立した西洋近代文明である。 西洋近代文明は、世俗主義、啓蒙主義の立場を取るため、宗教が政治や教育に関与することはないし、「人間が理性をもとに創り上げた法体系によって、現実の人間社会に規範を与える」。 しかしながらムスリムにとって規範とは、神が定めた法のことをいうので、これと根本的に対立する。
筆者はヨーロッパの中でも、ドイツ、オランダ、フランスの三国を取り上げ、各国におけるイスラーム世界との交わりを考察する。 そもそも、日本は島国であるため、「日本人とは何か」を我々国民が日頃意識することは少ないが、ヨーロッパは地続きであるため、これを定義する姿勢は国により異なる。
まずドイツであるが、「ドイツ人とはドイツ人の親から生まれた人間を指す」という血統主義的な民族観をもつ。これは2000年以降の外国人法で、ドイツで生まれた外国人も23歳満了までにドイツ国民として扱う方針に改められたが、依然として根底にはかつての価値観が横たわる。
特に、信仰実践に熱心なムスリムが、先進的なヨーロッパ社会や文化になかなか同化しないことは、国民の不安を煽った。
筆者はムスリム女性がスカーフやヴェールを公的な場所で、特に公立学校で教師が、身につけることを禁じる決定に関する騒動を取り上げる。
この決定に賛同する主張者は「国家と宗教の分離」という原則論の裏に、複数の宗教、文化が混在することを承認したくないという拒絶を掲げている。
そもそも彼女たちがスカーフやヴェールで自分を隠す理由は、イスラーム世界では「女性の髪は性的なもの」として人前で隠すよう求められているからだ(実際コーランには「汝の隠しどころを覆え」としか書かれていないが)。
よって彼女たちがスカーフを取れと命じられることは、セクシャル・ハラスメントにほかならない。
また「国家と宗教の分離」の原則を掲げるのであれば、キリスト教徒が掲げる十字架も着用禁止にすべきだ、とする主張もある。
ドイツが国家統一を果たしたのはイギリスやフランスより遅く、「ドイツをドイツたらしめる文化的な背骨のようなもの」に自信をもてないことなどが、排外的な民族主義を生み出す下地となったのかもしれないと、筆者は考察している。
つぎにオランダであるが、「どこで生まれたか」によって国籍を与える、生地主義の立場をとる。
また、オランダにおけるリベラリズムとは、個人が生きたいように生きる権利を保証することを指す。
この国において、ムスリムはカトリックやプロテスタントと同じく、多分化主義に組み込まれている。
では、このような社会でムスリムへの批判が存在しうるのかというと、答えはイエスである。
「個人が生きたいように生きる」とは、裏を返せば「他人に干渉されない」ことを重視することであり、異質な文化をもつ人間が増えることで、自分たちの権利が脅かされることを懸念する。
特に、テロを起こし、女性を抑圧し、ヨーロッパの普遍的価値を学ぼうとしない彼らに対して、オランダは「自分たちが築き上げた寛容の精神がイスラームの不寛容によって脅かされる」というレトリックを用いている。 オランダにおいてイスラーム組織に対する規制が強化されるのは時間の問題だと筆者は意見を述べている。
最後にフランスであるが、フランス国民であることは、共和国の理念や原則を受け入れ、共和国と契約を結ぶことを意味する。
「自由・平等・博愛」のもと、移民への差別は悪とされるが、差別がないわけではもちろんなく、現実に起きる差別が個人の問題に帰されてしまう構造をもつ。
移民にとってフランス人となる契約を結ぶためには、その意志を役所に申請し、フランス語でのやりとりをしなければならない。
フランスにとっての博愛は「万人を愛する」という意味をもたず、むしろ「同胞のみを愛する」という意味をもつ。異なる集団に対しては、愛するどころか敵視と排斥の目を向けることになる。
この国においても、スカーフ着用問題は起きており、おおよそドイツと同じ構造をもつが、中にはスカーフ禁止に賛成するムスリム女性もいる。
彼女たちはフランス社会の多数派と同じく、スカーフを女性抑圧のシンボルとみなしており、彼女たちがこのような立場を取るようになったのはフランスの教育によるところが大きい。
しかしながら、一方で、高い教育を受けてなお、スカーフ着用を個人の自由意志の表明として実践する女性もおり、実態はそう単純ではない。
これらのスケッチを通じて筆者は、ドイツはもともと存在する外国人に対する排斥感情によって、オランダはイスラーム共同体の形成を促進してしまうシステムによって、そしてフランスは同化圧力によって、「文化的・社会的統合に失敗した」と断言している。
最終章において、筆者は、今日のイスラーム・ヨーロッパ両圏の対立は、ヨーロッパ世界のイスラーム世界に対する誤認によるところが大きいと主張する。
ムスリムにとって商業における公正の観念と弱者救済は表裏一体の教えであり、苦しい境遇にある同胞は救済するために努力しなければならない。そのための行動は、彼らを取り巻く環境が悪化するにつれて、大きなものにならざるをえない。
本来、キリスト教やユダヤ教などの異教徒に対して敵意を抱かないどころが、同じ唯一神から啓示を受けた人間として、兄弟と考える彼らの中には、過激な行動をとるものも現れる。
欧米世界は、このようなイスラーム世界に対して、彼らが公正とみなす政策を実現できないどころか、憎悪の連鎖のなかで「原理主義」というレッテルを作り出し、暴力に訴えて反撃するなと諭すには、あまりに理不尽な被害を与えてきた。
両世界の関係を相克の時代から対話の時代へ転換させるためには、ヨーロッパ世界イスラーム世界の文明を理解し、自らの文明がもつ「社会的進歩の観念を無意識に他者に押し付ける力」を自覚する必要があると筆者は締めくくる。